またもすがなんかいってる By Dr.Mosu#1「 小箱の中身①」

またもすがなんかいってる By Dr.Mosu

小箱の中身①

朝のルーティンというほどではないけれど、最近続いていることがある。

キッチンの東側にはめころしの窓があり、その窓枠を飾り棚として使っている。
朝起きたらそこに置いたグラスの水を替え、なんとなく小皿に載せた指輪の顔色を見る。
先日100歳で亡くなった祖母の金の結婚指輪と、サファイアの指輪だ。

祖母は終戦後、半島から引き揚げてきた引揚者だった。
幸いなことに帰国するまでは誰も亡くならなかったけど、現地にあった物は一切合財失った。
祖母の父は事業家で、現地に複数の映画館や旅館を持っていたらしい。一人娘の祖母に長男だった祖父を婿養子にもらっているほどだから、当時は勢いのある家だったのだろう。

それが、住む場所もなく帰国し、文字通りの素寒貧。
事業家の婿養子になったはずの長男が、義両親と妻子を連れて次男が跡取りになった実家に寄宿するのだから、当たり前に相当な精神的打撃だったろう。
祖母の母が華やかだった昔のことを話し出すと、烈しい勢いで遮っていたと云う。お嬢様育ちだったはずの祖母だけど、子にとってはモーレツな母親だったとも聞く。
祖父への義理立てや引け目もあったし、失ったものを数えていたら生きていけなかったのだと思う。
実際、祖母の父が日本で再起を企てたという話は聞いたことがない。
半島から大陸に進出するほど精力的だった事業家が外的要因で資本を失ったのに出直さなかったということは、その気力を失って戻ることがなかったのだと思う。半島で生まれた子の1人も、後に亡くなっていた。過去の思い出に生きる両親は、早めの隠居になった。

祖父は勤勉な人だったので出世した。
私の母が結婚する頃には相当の支度をしている訳なので、経済的にも不自由はなくなっていた筈だ。

でも祖母の心の中には、喪失の苦しみがたたみ込まれていたと思う。

私が研修医になってしばらくして、2人で旅行をしたことがあった。
鉄道で温泉地に行き、楽しく遊んだ。

その帰りの列車の中で、祖母がハンドバッグに入れたジュエリーケースがないことに気づいた。行きの列車に乗る前、ハンカチを取り出そうとして落としたのだと。
祖母の悲嘆は意外なほど激しかった。自分でもなんとか気を逸らそうとするけれど、すぐにうめき声をあげて涙ぐむ。半島の話は一切出なかったけど、過去に自分の不注意でなくした持ち物の話が引きも切らず飛び出した。
気づいたのが帰りの汽車の中だったことに、私は心から感謝した。

出発した駅に着いて、祖母をタクシーに乗せ、私は駅や地下街、デパートの事務室や交番、鉄道警察の詰所をしらみ潰しに回った。
その甲斐あってか、祖母のジュエリーケースは地下街の防災センターで見つかった。
中身の指輪も、クッション替わりのティッシュも、そっくりそのままだった。

一足先に帰宅していた祖母に電話で告げると、祖母は電話口で泣いていた。その時に、ゆくゆく私にくれると言ってくれたのが、この2つの指輪である。

1つは、金の甲丸指輪で、引揚げから大分経ってから祖父が買い直してくれたもの。

もう1つは、どこぞの宝石屋の閉店セールで母と一緒に買ったサファイアのファッションリングだ。よくあるデザインの物だけど、祖母は気に入って割とよく身に付けていた。
爪が薄くなりメレダイヤが一つ欠けたのを修理に出したのも私で、大腿骨頚部骨折であまり出歩かなくなるまでは、その後もつけていてくれたと思う。

残念ながら祖父は早くに亡くなってしまったけど、さほど丈夫ではなかった祖母も100歳まで生き、何もいらなくなった頃に亡くなった。

約束通り指輪を受け取った私は、当初は日常に使おうと思ったけれど、やっぱり所有権が移ったことにまだ馴染めなくて、東側の窓に置くことにした。隣家の陰で直射日光が当たらないので、私のお気に入りの飾り棚なのである。
好きすぎて滅多と使わないヴィンテージバカラのグラスに水を入れて添えたところで、これはお仏壇だと気づいた。
以来、上手く煮えた栗でも頂き物の葡萄でもちょいちょい見せるようになり、いよいよ仏壇みが増している。

朝起きて、グラスの水を流しにじゃっと空け、新しい水を満たして供える間にしばらく元気だった頃の祖母のことを思い出す。夜にふと寂しくなると、また水を換えたりする。

古代人と同じように、祭壇を通じてクラウド上の何かと交信しているのだと思う。

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